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代表取締役会長 川西克司

昔のエピソード

私の父親が岐阜の外車の塗装会社に勤めていたのですが、昭和26年に独立して豊橋で塗装事業を始めました。
しかし、間もなく体調を崩し、母親が社長を代行するなどしてとても苦しい時代でした。
当時、中学生だった私もスプレーガンを持って手伝いましたが、子供の時から父親の仕事ぶりを見て感じたのは、
いかにきれいに仕上げ、より良いものを作るかということでした。
この頃から塗装に対する目を養うことができたと思っています。
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昭和28年頃、豊橋に東郷堂というカメラ屋があり、そこのカメラ部品の塗装をやらせてもらっていました。
昔はフィルムが良くなかったので、レンズ内側のボディ部分は必ず艶消し塗装を施していました。
また、外側にはワニ皮塗装を施すわけですが、このワニ皮模様を出すのに大変苦労しました。
当初、乾燥時にガスを使ったら、真っ白になってワニ皮の柄も出ませんでした。そこである人に教えてもらったのが、 乾燥炉の下に備長炭を置く方法、いわゆる赤外線による乾燥です。
この技術は、後の編み機のチヂミ塗装でも役立った技術の一つです。
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この頃、東郷堂で景品用の小さなカメラも作っており、その素材に真鍮(しんちゅう)を使っていました。
真鍮は放置するとすぐに錆びてしまいますから、クリヤー塗装をしなければならないのですが、 磨き工程でバフをかけると、それが染み込んでしまう、シンナーで洗浄してもうまくいかない。
そこで「カラ焼き」という方法を思い付いたのです。
しかしその頃は当社もバッジ式の直火乾燥炉ですから、乾燥炉内部の温度が上部と下部でかなりの差がありました。 乾燥炉上部にいれた製品はカラ焼きできたのですが、下は直火で温度が高いために真鍮が真っ赤になって半分以上が不良になってしまいました。
そこで乾燥炉の温度を細かく調べ、途中で上下を入れ替える方法をとりましたが、それでも完全ではない。
最後に思いついたのが、バーナーのすぐ上に厚い鉄板を置いて乾燥炉内の温度を均一にする方法。
こうして「カラ焼き」の技術を確立することができました。

金属から樹脂への転換

ある時、ある人から「カラー鋼板が出てきたから、いずれお前のところの塗装の仕事は無くなるよ!」と言われました。
そこで様々な鋼板メーカーを見学に回りました。
その時はプレス時に塗膜が剥離するなどの欠点もありましたが、いずれ改良されると考え「これはあと5年だな」と思い、 昭和57年、プラスチックへの転向を決意しました。
しかし当時の工場には長さ6メートルのブースが一つしかなかったので、塗り重ねの中間でシンナーを揮発させるスペースが十分にとれませんでした。
当然、新たに設備投資する金も無いということで、着目したのが「シンナー」です。
夏になると気温が高くなり、シンナーの揮発を遅くする為に高沸点溶剤を入れますが、 その反面、微粒化が悪くなるのです。
そこでまた低沸点を入れるなどイタチゴッコになってしまい、塗装直後と乾燥後の出来ばえを経験で判断するしか方法がありませんでした。
結論として「高沸点溶剤を入れるのではなく、中沸点溶剤を抜く」いわゆるハイ&ローシンナーを オリジナルで作りました。
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また、樹脂になると形状の複雑さや素材の悪さ、静電気の影響などで良品は5%くらいでした。
再塗装はNGだったので産業廃棄物の山でした。これでは大変ですので、磨いて良品にする技術も学びました。
なにしろカラー鋼板により金属塗装は無くなると思っていましたから樹脂しか生きる道はないということで 社員も家族も一丸となってがんばりましたね。
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こうして樹脂の世界で自信をつけ、本格参入を決意しました。

困ったときは川西へ

この頃(昭和57年)10月の時点で月商2千万くらいでしたが、 5ヵ月後の12月にはなんと7倍の1億5千万になりました。
一気に7倍ですから、人手が足りない、寝る時間もない、と大変厳しい状態でしたが、 何とか新人をかき集めてこれを乗り切りました。こうしてゲリラ的にやったことが社員も自信を深め、 私自身も仕事量と人の増減をコントロールする術をマスターできました。
またこういう実績はユーザーさんに次から次へと伝わっていきます。
要するにお客さんが困っている時にすばやく対応することが大事だと痛感しています。

今後はすばやい対応だけでなく、技術・管理など確実性の部分でもレベルアップし、更なる飛躍を目指します。